ひと夏の家庭教師



『ひと夏の家庭教師』


第9話






健が帰るとちょうどいい時間だった。今から家を出れば家庭教師の時間にいい時間だ。簡単に準備を済ませ、誰もいない家に鍵をかけ、出る。キョコと会うのはあの日の出来事以来だ。その間、電話で話すこともあったし、暇な時間にはメールをやり取りもした。間には恋人同士にも似た空気も感じ取れた。それが少し嬉しかった・・・。『もしも』のことは多分起こり得ないと思う。キョコがもし本当に俺を欲しているのなら、それは起こり得るが、まさかそれはないだろう。あったら嬉しいが、それで、やってしまったら関係が崩れるようで嫌だ。今の関係が一番良いんだ。壊したくない、壊したくない。
 キョコの住む部屋のあるアパートの目の前まで来た。深呼吸で波打つ心臓を落ち着かせると、いつもの番号を押して、玄関口を入る。玄関からオートロックなんだから金持ちなんだろうなここの家族は。
「あれ?」
いつもなら明かりが点いてる筈なんだが、その様子はない。外窓から中を覗いてみたが確かに明かりは点けられていない、いや、消されている。中に誰かいる様子もない。だったとしたらどこへ・・・。ついさっきまで誰かがいたような雰囲気はある。多分、出て行ってから1時間も経っていないと思う。慌てて外出したような、そんな感じだ。
 ドアに紙が挟まっていた。無造作に投げ捨てられたように挟まっている一枚の・・・紙切れ。恐る恐る紙切れの端っこをつまんでドアの狭間から抜く。真ん中で2つに折りたたんであるから、本当に時間がなかったのだろう。
『今日はお休みさせてください』
走り書きで書いてあった。いつものキョコの可愛い字体で。裏返してみたが、何もない。ただのメモ用紙にさらさらっと書いて、俺宛に、か・・・。何処にいったのだろう?鍵は開いていない。しょうがない、メールでも送っておくか・・・。
『置手紙読んだ。了解しました。』
そう打って送ろうとして思いとどまった。これじゃ寂しすぎる。もう少し付け足しておこう。
『置手紙読んだけど、どうした?何かあった?』
心配しすぎだろうか・・・。でも気になる。とりあえずこれでいいだろう。
送信中・・・
送信しました
携帯を上着のポケットに突っ込んで、エレベーターに乗り、『1』を押す。せっかくだから街をぼーっと歩いて帰ろう。気になるけど・・・。
ぶー、ぶー、ぶー、
マナーモードにしていた携帯がなる。メールだ。直感でキョコだと判断したので、すぐ携帯を出してメールを見る。
送信者:立川 恭子
フルネームで入れているので、こう表示されている。キョコだ。
件名:Re;
そのまま返信したのか、件名には『リターン』の表示。送信してから返ってくるまでの時間を考えれば相当短い内容であろうことが予測出来る。
本文・・・
『』
へ?空メール?何も書いてなかった。本文打とうとして間違えて送信してしまったとか?でも、初めてだぞ、これは。余計気になってしまった。何処にいるんだ・・・。そして、何をしてるんだ・・・。キョコ・・・。

駅前までの10分程度、キョコらしい人物には会わなかった。メールもあれ以来、来ていない。問い合わせ・・・
新着メッセージはありません
ないか・・・。もう一回送ってみようか。
ぶー、ぶー、ぶー、
携帯を出してメールを見る。
送信者:立川 恭子
キョコだ・・・。今度は、件名には何も表示されていない。
本文:
『さっきは空で送ってしまってすみません。ちょっと来て欲しいんです・・・場所は・・・』
何やら深刻な予感を掻き立てるメールである。場所はここからそうは遠くない、キョコの通う学校の近くである。バスで・・・30分くらいか。
「とにかく行ってみよう」
早足で歩き出し、目的地へと向かうバス停の場所を確認した。


───バスの中。
あと5つくらいか・・・。土地勘がそんなにあるわけではないが、ちょっと地図を見ればすぐ分かる場所だ。最寄のバス停も分かった。というかバス停を降りたらすぐの場所だ。迷うことなく行けるだろう・・・。
 バスの中で、部活帰りであろう高校生が数人おしゃべりに耽っている。男子学生が2人、女子学生が2人。4人一緒のグループなんだろう。よくみたらキョコの高校の制服である。知っているのだろうか?聞いてみようか・・・。いや、やめておこう。このバス、一駅一駅の間が非常に長くて、時間もまだまだある。あと4つ・・・。そういえばメールは返してなかった。大丈夫だろうか?『分かった。すぐ行く』くらい送っておけばよかったかな。とりあえず耳に入ってくる会話で暇を潰す。
「今日、部活どうだったよ?」
「俺は疲れたな。大会終わったばかりだってのに監督きつすぎだよほんと・・・」
どうやら、ある部活の男子部と女子部のようだ。今日の部活の話をしている。
「ねね、そういえばさ、G組の立川って知ってる?」
「あー分かる分かる。あの子でしょ?両親どっか行っちゃって一人で暮らしてる」
ん?立川・・・両親不在・・・キョコか?
「あの子、昨日、誘拐されたらしいよ」
え?!誘拐?!
「えー?マジで?」
女子高生特有の語尾が異様に伸びた口調。そんなことはどうでもいい!早く次を・・・。
 次は〜〜
降りる予定のバス停だ。多分、5分くらいはある。停車ボタンを押して、会話を聞く。
「詳しいことは知らないけど、友達の友達から聴いたのよー」
「あ、俺は、C組の笹川って奴から聞いたよ」
「へー」
「笹川 洋二?知ってるよ、そいつ。夏休み前、学校来てなかったな」
洋二?まさか?
「そそ、その笹川。俺、たまに会うからさ。っても街ですれ違う程度だけど。そしたら話しかけてきて、言ってきた」
バスが停車する。あり得ない・・・。まさかの悪い予感が的中しそうだ・・・。
「お客さん、お金ー!」
払うのを忘れて降りそうになっていた・・・。

ここから南に向かって2,3分くらいだろうか。目的地に到着した。
「なんだここは?」
普通の団地みたいな場所だ。この中に目的地である部屋があるというのか・・・。アパートが3つか4つ・・・。まばらに家が建っている。
「ここからいったいどうやって・・・」
ぶー、ぶー、ぶー、
携帯が鳴る。メールだ。
送信者:立川 恭子
件名:なし
本文・・・
『もう着いたみたいだな。』
キョコじゃないぞ!こんな書き方するわけがない。もしかして、さっきバスで聴いた「誘拐」というのは本当だったのか?!誘拐犯からのメールなのか?!犯人は俺を知っている・・・とすると、一度でも顔を合わせた事のある『笹川 洋二』なる人物なのか・・・。手に汗が滲んでくるのが分かる。夏の暑さとは関係が無い。メールの続きを読み進める。
『キョコはここにいる。会いたければ一人でここを見つけろ。見つけられたら解放してやろう』
なんだこれは・・・。「俺はこの犯行を楽しんでいるんだ」と言わんばかりの勢いだ。舐めてるのか?
『洋二』
・・・決定的だ。キョコの元カレで、先日、キョコの家まで来て喧嘩を吹っかけてきたあの男・・・洋二。いったい何があったんだ・・・。
 メールには何もヒントなどない。ただ、この小さな団地のどこかにいるということだけ・・・。それに、携帯は洋二の手にあるということだけ・・・。
 焦っていてもしょうがないから、公園に座ってよく整理することにした。何でこんな真似しなきゃいけないんだ・・・。でも、キョコに会いたい一心で、守りたい一心で、救いたい一心でたった3行のメールを何度も読み返した・・・ 。








第10話